【驚愕】明治・大正時代に「バズった」意外すぎるもの7選!現代よりヤバかった社会現象とは?
現代社会において、SNSを中心に「バズる」という現象は日常茶飯事です。しかし、SNSが存在しなかった明治時代や大正時代にも、人々を熱狂させ、社会現象を巻き起こした「バズりアイテム」や「出来事」が存在したことをご存知でしょうか?今回は、戦前の日本で誰もが話題にし、時には現代では考えられないような影響を及ぼした、意外すぎる7つの「バズり」を紹介します。
1. ウサギバブル:富裕層のステータスシンボルから社会問題へ
まず最初に紹介するのは「ウサギ」です。皆さんは明治時代にペットとしてウサギが大流行し、「ウサギバブル」と呼ばれる熱狂的なブームが起きていたことをご存知でしょうか?現代のペットブームとは一線を画す、その熱狂ぶりは驚くべきものです。
ブームの火付け役となったのは、西洋から輸入された「飼いウサギ」でした。元々日本にもウサギは生息していましたが、西洋の品種が輸入されたことで、愛玩動物としての飼育が広まります。特に明治4年(1871年)から流行が始まり、翌年には大流行を見せました。主に富裕層の間で飼育が人気となり、その理由はウサギの「毛色」にありました。品種改良によって珍しい色柄や美しい見た目を持つウサギが生まれ、そのようなウサギには高値がつくようになったのです。珍しい柄のウサギを飼育することは、当時の上流階級にとって一種のステータスとなり、現代でいう高級車やブランドバッグに近い存在でした。
実際、当時のウサギの中には非常に高値で取引されるものもあり、珍しい種類だと何百円という値段で取引されることもあったそうです。当時の巡査の初任給が5円や6円、富岡製糸場で働く工女の年収が9円から25円ほどだった時代に、彼らが何年もかけないと稼げないような額でウサギの取引が行われていたのです。そのため、ウサギがお金儲けになると考えた人々が続々と現れ、より珍しく高値で取引されるウサギの後輩が盛んに行われました。
しかし、ウサギがあまりにも流行したために、世の中は大変なことになってしまいます。ウサギを巡って詐欺事件が横行したり、果てには殺人事件が発生したり、ウサギで急激に儲けた人が家業を顧みずに税金を納めなかったりといった弊害が続出したのです。そのため政府はウサギの飼育や売買に規制を設けることにしました。まず行われたのは、待合茶屋などにウサギを持ち寄って品評を行う「ウサギ会」の禁止です。さらに東京府では、ウサギの売買をする際には届け出をすることや、ウサギ1羽につき毎月1円の税金を納めることなどの制度も誕生しました。これによってウサギの売買に大きなコストがかかるようになり、ウサギの値段は一気に下落。こうしてウサギバブルは徐々に収束の兆しを見せたのです。
2. 絵葉書ブーム:情報伝達の最先端メディア
次に紹介するのは「絵葉書」の流行です。現代ではオールドメディアの一つというイメージが強い絵葉書ですが、明治時代にはものすごく「バズった」新しいメディアでした。
明治時代は絵葉書という存在が初めて登場した時代です。明治4年(1871年)に東京・大阪間で郵便事業が開始されたことを始まりに郵便制度が施行されました。当初は官製はがきのみ郵送できましたが、明治33年(1900年)からは私製はがきも郵送できるようになり、この年に日本で絵葉書が初めて公式に登場したと言われています。これをきっかけに絵葉書ブームに火がついたのです。
明治時代の絵葉書には、京都など有名な観光名所の風景絵葉書が定番の人気商品でした。また、当時の流行をデザインしたものや、西洋のアール・ヌーヴォーの影響を受けたモダンなデザインなど、様々なデザインのものが存在しました。アール・ヌーヴォーは日本の浮世絵や工芸品から影響を受けた芸術運動であり、それが日本にも紹介されたことで日本美術にも大きな影響を与えました。当時の美術の流行が絵葉書のデザインにも反映され、モダンでおしゃれな絵葉書がたくさん製造されるようになったのです。さらに、美しい女性を印刷した「美人絵葉書」がブロマイド的な立ち位置として大人気となり、絵葉書は収集の対象としても多くの人に楽しまれていました。
当時の絵葉書にはもう一つ重要な役割がありました。それは「新しいメディア」としての役割です。テレビやラジオ、インターネットといった映像メディアが存在せず、新聞もまだ発達していなかった当時、絵葉書は重要なメディアの一つに位置づけられていました。観光地の風景や文化を伝えること、戦争や災害などの出来事を人々に伝えることなど、絵葉書が担っていた役割は大きなものだったのです。人々は絵葉書を通じて、遠く離れた場所の風景や出来事を知ることができました。
特に日露戦争の時期には絵葉書ブームが最高潮を迎え、非常に多くの絵葉書が売れたと言われています。戦地から送られるはがきが軍事郵便として無料で届けられ、軍事郵便には絵葉書が多く使われていました。さらに逓信省によって戦を記念した絵葉書が発売され、これがものすごい人気となったそうです。当時の郵便局ではこの絵葉書を買い求める人々が列をなし、あまりの混雑に窓を叩いたり、石を投げたりする人も現れ、医者の手当てを受ける人や入院する人まで現れたといいます。神田の郵便局ではこの騒ぎによって死者が出たとも伝えられており、当時の人々の熱狂ぶりが伺えます。
3. ベストセラー小説「根食者」:国民的恋愛ドラマ
次に紹介するのは、明治時代に最も話題になったベストセラー小説「根食者(こんじきやしゃ)」です。現代の日本でもベストセラー本が話題になりますが、今から100年以上も昔の明治時代にも、誰もが買い求めて読んだ超大人気の本がありました。
「根食者」は、尾崎紅葉によって書かれた小説です。明治30年(1897年)から読売新聞で連載がスタートして以来、多くの読者の心を掴み、日本中に「根食者ブーム」を巻き起こしました。この小説は、熱海を舞台に、学生の貫一と許嫁のお宮の間で繰り広げられるダイナミックな恋愛小説です。お金に目がくらんで他の人と結婚してしまったお宮に裏切られた貫一が、彼女を蹴り飛ばす「熱海での名場面」は非常に有名です。
「根食者」には元になった西洋の小説があるとも言われており、西洋のロマンチックな恋愛の要素を取り入れたストーリーが、明治時代の日本人、特に恋愛に憧れを持つ人々に大きな共感を得たと言われています。連載中から凄まじい人気を見せ、明治31年(1898年)には連載中にも関わらず舞台化まで行われました。人々は読売新聞の紙面に掲載される最新話を待ち望み、新しい話が掲載されるたびに話題で持ち切りになり、新聞の投書欄には感想がたくさん寄せられたといいます。「根食者」は、もはや明治時代の日本で知らない人はいないほど人気だったそうです。
約6年間にわたって連載が続きましたが、作者尾崎紅葉の急逝により未完に終わりました。しかし、続編を待ち望む声が非常に多かったことから、弟子の小栗風葉によって続編が書かれ、物語が完結されたと言います。他にも別の作者や読者などが結末を想像して続編や新編を書いており、現代でいうところの二次創作が盛んに行われたそうです。作者紅葉自身による遺稿の中からも結末の構想が見つかっているようで、連載終了後も度々映像作品化され、現代も愛される一作品となっています。
4. 自転車ブーム:上流階級のステータスと女学生の憧れ
次に紹介するのは「自転車」です。現代の日本ではごく一般的な乗り物ですが、自転車が登場した頃の日本には、熱狂的な自転車ブームが存在しました。
自転車が日本にやってきたのは明治時代初期のことです。海外で開発された自転車が日本に移入されたことでその存在が知られるようになりましたが、当時の自転車は高級品だったため、ごく限られた上流階級の人しか持っていませんでした。そのため、自転車を持っていることは上流階級のステータスの一つでした。また、自転車が日本にやってきたばかりの頃は、自転車が乗り物であるという認識すら存在せず、自転車の事故も多発していたようです。
しかし、少し時が経つと現代のレンタサイクルにあたる貸自転車が始まったり、国産の自転車の販売が開始されるなどして、少しずつ自転車という存在が認知されるようになりました。それでも当時の主流は移入品であり、しかも馬車や人力車などを対象とする車税の課税対象でもあったため、自転車は庶民が気軽に乗れるようなものではありませんでした。
そんな自転車ですが、富裕層や著名人の間では大ブームを巻き起こしていました。例えば、徳川最後の将軍として知られる徳川慶喜は、大政奉還で江戸を去った後、サイクリングを趣味としていたと言われています。彼は隠居生活において多種多様な趣味を楽しんでおり、その一つが自転車に乗ることでした。彼はお供を連れて自転車を乗り回していたと言われていますが、お供の人が自転車では追いつかずに人力車で追いかけたという話が残っています。また、彼が自転車に乗っている時に綺麗な女性を見かけ、それに見とれて事故を起こしたという、ちょっぴり残念なエピソードも残っています。
当時、高級車レベルに値段が高かった自転車は人々にとって憧れの的であり、上流階級にとっては優雅な趣味の一つでした。また明治時代には、女学生が通学手段として自転車を使うことも多かったそうです。矢絣の着物と袴、大きなリボンを身につけた女学生が颯爽と自転車に乗る様子は、当時の広告などのモチーフとして非常に人気でした。ですがその一方で、女性が自転車に乗ることに対して批判的な目を向ける人も少なくありませんでした。当時は現代に比べて女性の地位が低く、そんな女性が高級品である自転車に乗ることは「はしたない」という価値観が存在したのです。
また、夏目漱石がイギリス留学中に自転車に乗っていたことも有名です。イギリスの下宿生活で神経衰弱に陥ってしまった漱石は、その対処法として自転車に乗ることを勧められ、自転車に乗る練習をしていたと言います。しかし、乗るのがあまりにも下手だったようで、あまりの乗れなさに「自転車日記」なるものまで書いています。当時は日本だけでなくイギリスでもサイクリングが人気だったのですね。
5. 肉色おしろい:メイクに革命をもたらしたコスメ
次に紹介するのは、明治時代に「バズった」コスメです。現代の日本ではSNSを中心に口コミが広まり、爆発的な人気を獲得するコスメがたくさんありますが、明治時代の日本でも女性たちの間で大きな話題を呼んだ商品がありました。それが「肉色おしろい」です。
「肉色」とは、黄色を帯びた肌の色のことです。明治時代にこの肉色のおしろいが発売されたことで、日本の女性たちのメイクは大きく変化しました。元々、おしろいとはその名の通り「白い」のが当たり前でした。江戸時代の女性のメイクは基本的に肌を白く塗るのが普通で、「色の白いは七難隠す」という言葉が存在するように、当時は白い肌が美しさの条件の一つでした。そのため、かつての日本では「おしろい=白色」というイメージが一般的だったのです。
しかし、明治時代になって西洋の文化が日本に流入するようになると、健康的で自然な美しさという美意識が浸透し始めます。欧米の色付きおしろいが日本でも売られ、これまでの「ベースメイクといえば白」という価値観が覆されました。そして日本でも肉色おしろいの製造と販売が開始されました。その代表的な存在が、1906年に資生堂から発売された「楓出おしろい」と「花おしろい」です。「楓出おしろい」は黄色、「花おしろい」は肌色のおしろいとなっており、これまで白い単色だったおしろいにバリエーションができました。さらに資生堂は、大正時代には1917年に「7色高白い」なるおしろいも発売しています。これは7色のラインナップからなるおしろいで、色は従来の定番だった白の他に、バラ、ボタン、肉色、緑、紫となっています。それぞれバラ売りされていたので、好きな色を1つから買い求めることができました。ちなみに緑や紫は、電球の光の下でよく映えるため、芸者さんたちの間で人気だったそうです。このようにして、女性たちは好きな色や自分に合う色を選んでベースメイクを施すことができるようになったのです。肉色おしろいは、明治時代のメイクに革命を起こした存在と言えるでしょう。
6. 活動写真:大衆娯楽の王様「映画」の夜明け
次に紹介するのは「活動写真」です。活動写真とは現代でいう「映画」のことで、明治時代から大正時代にかけては、人々の娯楽として大きな人気を博していました。
活動写真は明治時代の1890年代に日本に伝わり、都市部を中心に人気となりました。当時の娯楽の中心街だった浅草六区をはじめ、多くの町で活動写真が開館し、新しい娯楽として話題になったのです。また活動写真は、娯楽としてだけでなくメディアとしても重要な役割を持つ存在となりました。家庭にテレビが普及する前の時代では、映画館でニュース映画を放映し、人々に日本や世界で起こっている様々な出来事を伝えていたのです。明治時代から大正時代までは、映画がその役割を果たしていましたが、昭和時代になると映像によるメディアが発達し始めました。
そんな昔の映画ですが、現代とは異なり白黒で無声が主流でした。特に明治時代や大正時代の映画は音声がない白黒映画が普通で、スクリーンの隣に「活動弁士」という人が立って、映画の内容の解説や登場人物のセリフを語ったりしていました。活動弁士は現代でいうところのナレーターや声優を兼ねた仕事の人です。声なき映画が主流だったこの時代、活動弁士の存在は必要不可欠でした。そんな当時の活動弁士の中には、語りの上手さなどから絶大な人気を得てスター的な存在になる人もいました。例えば、徳川夢声や駒ま来などが有名です。彼らは東京の人気を二分した弁士と言われていて、徳川夢声はインテリ層に人気があり、駒ま来は下町の庶民たちに人気があったと言われています。また「東に夢声あり、西に弁士あり」と言われたように、関西では泉郎という活動弁士が人気だったそうです。明治時代や大正時代の人々にも「推し」と呼べるような存在があったのですね。
そんな活動写真は、やがて無声映画から現代のようなトーキー(発声映画)に変わっていき、活動弁士は徐々に活躍の場をなくしていきました。仕事が減りつつあった彼らの中には、満を持して転身する人や、映画館の経営に乗り出す人などもいたそうです。
7. 流行歌「カチューシャの歌」:日本初の国民的ヒットソング
最後に紹介するのは、大正時代に大流行した歌です。現代の日本にも流行歌と呼ばれるものがたくさんありますが、100年以上前の日本にも、誰もが知り、皆が歌っていた歌が存在しました。その代表格が「カチューシャの歌」です。
この曲は大正3年(1914年)に発表された、島村抱月作詞、中山晋平作曲の歌です。この曲は舞台「復活」の劇中歌として、主演女優である松井須磨子らに歌われ、絶大な人気を博しました。歌を歌った松井須磨子の歌唱力が特別優れていたわけではありませんでしたが、西洋風の斬新なメロディや覚えやすい歌詞によってヒットしたと言われています。歌の歌詞は多くの新聞で五線譜と共に発表され、舞台「復活」を上演する劇場の廊下にも歌詞を書いた紙が張り出されました。人々は歌の歌詞をメモするために紙の前に集まり、その場で合唱になったこともあったそうです。こうして舞台「復活」の上演と共に「カチューシャの歌」が人々の間に広まっていったのです。
さらに「カチューシャの歌」は後にレコード、舞台「復活」の劇中歌としても発売され、飛ぶように売れたと言われています。また、レコードよりも安価な歌本もたちまち売れ、流行に拍車をかけました。皆が知る流行歌となった「カチューシャの歌」は社会現象とも言うべき人気となり、「カチューシャ、かわいそう」という冒頭のフレーズがたちまち流行語になりました。あまりにも流行しすぎたせいで、舞台「復活」の観劇や「カチューシャの歌」の歌詞を禁じる学校もあったと言います。こうして未だかつてない人気を誇った「カチューシャの歌」は、日本初の流行歌とも言われています。まさに「バズる」音楽の先駆けのような存在だったのかもしれませんね。
AIの所感
明治・大正時代に「バズった」とされるこれらの事例は、現代のSNS時代における流行現象と驚くほど多くの共通点を持っていることが分かります。情報伝達の手段や速度は異なりますが、人々の好奇心、共感、そして「流行に乗る」という心理は、時代を超えて普遍的なものであることを示唆しています。
「ウサギバブル」は、現代の投機的なブームや、SNSで人気に火がつき高額で取引される限定品などと重なる部分があります。また、その過熱ぶりから詐欺や犯罪に発展した事例は、現代のオンライン詐欺や情報操作の危険性を想起させます。政府による規制の導入は、現代のデジタルプラットフォームに対する規制議論とも通じるものがあり、社会現象がもたらす負の側面への対処は、いつの時代も重要な課題であることが分かります。
「絵葉書」が当時の「新しいメディア」として、情報伝達や人々の交流に果たした役割は、現代のSNSやメッセージアプリのそれに匹敵します。遠く離れた場所の出来事を伝え、人々の感情を揺さぶる力は、メディアの形態が変わっても本質は同じです。日露戦争時の熱狂ぶりは、現代の「推し活」や特定のコンテンツへの熱狂的な支持とも共通する心理が見て取れます。
「根食者」や「カチューシャの歌」の流行は、現代のドラマやヒット曲が社会現象となるのと同様に、人々の感情に訴えかけ、共感を呼ぶコンテンツの力が時代を超えて影響力を持つことを示しています。特に「根食者」の二次創作の盛り上がりは、現代のファンコミュニティにおける創作活動の源流とも言えるでしょう。
これらの事例から、人間が持つ「新しいものへの好奇心」「共感を求める心」「流行に乗りたいという欲求」は、時代や技術の進化に関わらず普遍的なものであることが再確認できます。そして、情報が伝達される速度や手段は変わっても、その情報が人々の間で共有され、感情を揺さぶり、行動を促すという「バズる」現象の本質は、100年以上前から変わっていないと言えるでしょう。過去の流行から学ぶことで、現代の社会現象をより深く理解するヒントが得られるかもしれません。