【悲報】ワイらのPCゲー、終わる。NVIDIAとAMD、安物グラボの生産終了を検討か
2025年の暮れ、PCゲーマーの足元を揺るがす衝撃的な情報が駆け巡っている。世界的な半導体メモリの不足と価格高騰の波を受け、グラフィックスカード(GPU)市場の巨人であるNVIDIAとAMDが、エントリーからミドルレンジ向けの低価格GPUの生産を段階的に縮小、あるいは完全に打ち切る可能性が浮上したのだ。これは単なる製品の値上げではない。「安価なグラボ」という選択肢そのものが市場から消え、PCゲームの入門者や低予算で楽しむ層が締め出されかねない、構造的な変化の始まりを意味している。
忍び寄る「メモリフレーション」の恐怖
この危機的状況の根底にあるのは、AIデータセンター向けの爆発的な需要を震源とするDRAM価格の異常な高騰だ。「メモリフレーション(メモリ+インフレーション)」とでも言うべきこの現象は、PCパーツ市場全体を蝕み始めている。2025年第3四半期にはDRAMの契約価格が前年比で170%以上も上昇し、わずか数ヶ月で2倍に跳ね上がるケースも報告されている。PC向けDDR5 16GBの価格は、たった1ヶ月で約137%も上昇。この異常事態はもはや一時的なショックではなく、2026年以降も継続する強いトレンドとして認識されている。
メモリメーカーは、利益率が極めて高いAIサーバー向けのHBM(広帯域幅メモリ)などの生産を最優先しており、我々コンシューマー向けのDDR5やGDDRメモリの供給は後回しにされているのが現状だ。秋葉原の一部の店舗では、すでにメモリやSSDの購入点数に制限を設ける動きも出ており、在庫枯渇と価格急騰の足音がすぐそこまで迫っている。
なぜ「安いグラボ」だけが狙い撃ちされるのか
では、なぜメモリ価格の高騰が、特に低価格帯のGPUの存続を脅かすのだろうか。その鍵は「BOM(部材表)」、つまり製品の材料原価にある。GPUは、演算を行うチップ本体に加え、GDDRメモリ、基盤、電源回路、冷却ファンなど多くの部品で構成される。このうち、GDDRメモリは、ハイエンドなモデルでもローエンドなモデルでも、基本的に同じ価格帯のチップが使われる。
これを自動車に例えるなら、高級セダンと軽自動車の両方に、ほぼ同じ価格のタイヤを装着するようなものだ。車両価格が高い高級セダンにとってタイヤ代の割合は小さいが、価格の安い軽自動車ではタイヤ代が原価に占める割合は一気に跳ね上がる。メモリ価格が2倍、3倍と高騰すれば、利益の薄い軽自動車(=低価格GPU)は、あっという間に採算割れを起こしてしまうのだ。
NVIDIAやAMDにとって、限られたメモリ供給を、利益率の高いハイエンドモデルに集中させるのは当然の経営判断と言える。数千円の値上げでさえ需要が冷え込む低価格帯のモデルを無理に存続させるより、ラインナップから外す方が収益を守りやすい。こうして、PCゲーム入門の扉は静かに、しかし確実に狭められようとしている。
ネットの反応
この絶望的な状況に、インターネット上では悲痛な叫びや的確な分析が飛び交っている。
しばらく買い時は来ないな。AMDのG付きCPUが売れそう
TSMCの工場への投資額が天文学的な水準に達しており、チップ価格がバブル寸前まで跳ね上がっていれば…薄利多売の安価なGPUやCPUは消滅していくのかもしれない。
コスト高によるインフレはあまり良くないなぁ、、、つまり、消費者は買えない、対して買える事業者はさらに富を増やす。ますます格差は広がりそうな予感しかしない。
グラボだけの問題じゃないだろ DRAMなんてどの産業機器も使ってるからテクノロジー系の商品すべてが死ぬほど値上がりしてヤバいことになる
今まで、我々低所得層でもそこそこに良い環境を構築できたことに感謝したい
AIの所感
今回の低価格GPU廃止検討の動きは、技術進歩がもたらす光と影のコントラストを鮮明に映し出しています。AIという最先端技術の発展が、皮肉にも、多くの人々がテクノロジーの恩恵に浴する門戸を狭めるという事態を招いているのです。これは、単なるPCパーツの価格問題にとどまりません。誰が最新のデジタル体験を享受でき、誰がそこから取り残されるのかという「デジタルデバイド(情報格差)」を、より深刻な形で再生産する出来事と言えるでしょう。
かつては、安価なPCパーツを組み合わせ、試行錯誤の中から多くのエンジニアやクリエイターが育っていきました。しかし、その「学びの場」であったはずのエントリー市場が縮小すれば、将来の技術革新の芽を摘むことにも繋がりかねません。企業の短期的な利益追求が、長期的な文化やコミュニティの発展を阻害する。この構造的な問題に対し、私たちはどう向き合うべきなのでしょうか。技術の進歩と引き換えに、私たちは何を失いたくないのか。今、改めて問い直す時が来ています。安価なGPUが過去の遺物として語られる未来は、もうすぐそこまで来ているのかもしれません。

