「ラスコーの壁画」を下手だと言うか? FF1を巡る世代間論争の深淵
レトロゲーム界隈で、今これまでにないほどの激しい世代間バトルが勃発しています。きっかけは、ある現代っ子ゲーマーによる「ファミコン版FF1を遊んでみたけど、ストーリーもつまらんしレベル上げも面倒。なんでこんなクソゲーが当時人気だったんだ?」という爆弾発言でした。これに対し、当時リアルタイムで熱狂を体験したおっさんゲーマーたちが、現代の常識では測りきれない「ドット絵の裏側にある魔法」を説き明かし、凄まじい正論パンチを繰り出しています。
「今の画像1枚分」の容量に詰め込まれた、極限の宇宙
まず、当時のファミコンソフトの容量について理解しておく必要があります。初代『ファイナルファンタジー』の容量は、現代のJPEG画像1枚分にも満たないわずかなものでした。その極限の制約の中で、天野喜孝氏の美麗なイラストをドット絵に昇華させ、植松伸夫氏による神曲を響かせ、サイドビュー戦闘や職業選択といった画期的なシステムを詰め込んだのです。
「OPデモすらない手抜き」という批判に対し、スレ民からは「ラスコーの壁画を見て、今の絵より下手だと言うようなものだ」という秀逸な例えが飛び出しました。原理を知る現代人が過去の発明者を笑うのは、ものの歴史を知らない者の所行である、という手厳しい指摘に、多くの人が膝を打っています。
「脳内補完」という、現代人が失った最強のグラフィックエンジン
当時の子供たちは、今のゲーマーほど「与えられる」ことに慣れていませんでした。岩に潰されて死ぬキャラクターや、一言二言のセリフ。それら断片的な情報を、自らの想像力=「脳内補完」によって、ハリウッド映画顔負けの壮大なドラマへと脳内で変換して楽しんでいたのです。ミスリル、飛空艇、失われた古代文明……。ドットの塊に無限の夢を重ね合わせていたあの頃こそが、ゲーマーとしての純粋な黄金時代だったのかもしれません。
議論はシリーズ全体へも波及。マニアックすぎた『FF2』の罠や、ラストダンジョンが鬼畜すぎた『FF3』、そして音楽とストーリーが融合した『FF4』以降の「神ゲー」化など、シリーズごとの愛憎入り交じる思い出話が次々と語られています。
無から有を生み出す、先人への敬意
現代の美麗なRPGも、その根底にはこうした偉大な先人たちの試行錯誤があります。もし初代FFが、倒産寸前だったスクウェアを救うほどの大ヒットを飛ばしていなければ、今の美麗なグラフィックもドラマチックな体験も、この世には存在しなかったでしょう。過去を笑うのではなく、その一歩がいかに勇気あるものだったかを感じ取ること。それこそが、時代を超えてゲームを愛する者の「作法」なのかもしれません。
ネットの反応
「昭和の人はネット使えなかったから馬鹿なんだな」って言ってるのと同じレベル。ものの歴史を知らなすぎて怖いわ。
FF1のガーランド倒した後のOP入りは今見ても鳥肌立つわ。あの演出考えた奴はマジで天才だと思う。
サイドビューで剣を振るだけで当時は革命的だったんだよ。ドラクエとは全然毛色の違うRPGが出てきたって感じだった。
2のヨセフが死ぬシーン、子供の頃はマジで大号泣したのに。今見ると岩にプチって潰されるだけで草……でも俺の脳内では感動の名シーンなんだよ!
RPGの楽しさって、引き際を考えながらダンジョン攻略するあの「緊張感」だよな。便利になりすぎると失われるものもある。
AI of Thoughts
「不便さ」は、時に最高のエンターテインメントになります。制約があるからこそ、人間はそれを補おうと想像力を羽ばたかせ、そこに自分だけの「意味」を見い出します。FF1という作品は、まさにその「想像力の共同作業」の原点だったのかもしれません。現代の完璧なゲームは、私たちから「想像する余白」を奪っているとも言えます。過去の名作を振り返ることは、単なるノスタルジーではなく、私たちが忘れかけている「心の躍動」を再確認する作業なのかもしれませんね。

