サイトアイコン 酒呑ガジェット

【悲報】FF、いつから「ホストとムービー」のゲームになった?1〜6至高説と7以降の断絶を徹底考察。さよなら、ぼくらのファイナルファンタジー。

終わらない「最高のFF」論争

日本が世界に誇るRPGの金字塔『ファイナルファンタジー(FF)』シリーズ。その歴史は常に「革新」の連続でしたが、同時にそれは「ファンの断絶」の歴史でもありました。今、ネット上で再び激しいレスバを巻き起こしているのが、「FFは1〜6が至高で、7からだんだんアレになった」という説です。

ドット絵が描き出すファンタジーの温かみを愛した古参ファンと、PlayStationという新時代に衝撃を受けた新世代。この二つの陣営の間にある深い溝は、単なる好みの違いを超えた、JRPGというジャンルの変遷そのものを物語っています。

「6」という分岐点と、3Dが奪った「想像の隙間」

実は、多くの人が分岐点とする「7」の前作である『FF6』の時点で、今の「ムービーゲー」への兆候は現れていました。魔導アーマーに代表される近代的な機械の導入、そして個別のキャラクターを掘り下げるための「群像劇」という演出。それは同時に、プレイヤーが自由に世界を探索し、想像する余地を削り始めた瞬間でもありました。

そして迎えた「7」以降、グラフィックがリアルになればなるほど、キャラクターたちは「プレイヤーの分身」から、画面の向こう側で勝手に動く「完成された人形」へと変わっていきました。天野喜高氏の幻想的なアートから、ホストのような美男美女が闊歩するサイバーパンクな世界観へ。この劇的な変化についていけなかった古参ファンたちが、今もなお「あの頃のクリスタル」を懐かしみ、声を上げ続けているのです。

「ドロー」と「一本道」が招いたシステムの迷走

システムの面でも、ファンの葛藤は続きました。「8」で導入された魔法を敵から吸い取る「ドローシステム」は、戦略性を奪う作業ゲーとして批判を浴び、召喚獣を呼ぶたびに見せられるスキップ不可の長いムービーは、プレイヤーから操作権を奪う「映画化」の象徴となりました。

「10」ではストーリーテリングの極みに到達した一方で、広大な世界を歩くワクワク感は消え、ただ一本道を歩いて物語を見るだけのご褒美映像付き小説のような構造に。さらに、11や14といったオンライン化は、「一人でじっくり浸りたい」と願っていた多くのファンを絶望させ、コミュニティを完全に二分してしまいました。

ブランド価値が低下したと言われる現在の「15」や「16」においても、吉田直樹氏をはじめとする著名な開発者に丸投げするような「誰かが何とかしてくれるだろう」という上層部の甘えが透けて見える、と厳しい意見も噴出しています。

ネットの反応

7でストーリーが変に褒められたせいで、開発が「映画ごっこ」に味をしめちゃったんだよね。それが今の迷走の始まり。

6までは自分が冒険してる感覚があったけど、7以降はクラウドやスコールの物語を横で眺めてるだけの「見物人」にさせられた感じ。

ドット絵の頃は、あのチープなドットの裏側に無限の想像が広がってた。リアルになればなるほど、夢が醒めていくのは悲しいな。

1から10までは全部好き。11以降はもはや別ゲーとして割り切ってる。スクエニはもう一回、クリスタルが何だったのか思い出すべき。

結局、自分が一番多感だった頃に遊んだFFが最高なんだよね。だからこの論争は一生終わらないし、決着もつかない。

最近のFFは「ホストが深刻な顔してよく分からん用語で喋ってる」って印象しかない。もうおじさんの居場所はないんだよ。

AIの所感

ファイナルファンタジーというタイトルが背負った宿命は、常に「最新の技術で最高のものを見せる」という呪縛に他なりません。しかし、技術の進化は残酷にも、かつてのファンが愛した「素朴な感動」を置き去りにしてきました。ブランドが成熟し、巨大化するにつれて、作り手とファンの間にある「FF像」の乖離はもはや修復不可能なレベルに達しているのかもしれません。それでも、新しい作品が出るたびにこれほどまでの議論が起きること自体、このシリーズがいまだに「特別な存在」である証左でもあります。かつてのクリスタルの輝きが再び戻るのか、あるいは全く新しい光を見せるのか。私たちは、さよならを告げたはずのその物語の続きを、結局どこかで待ち望んでいるのです。

モバイルバージョンを終了