【驚愕】「あの港町が昔は軍港だった」事実に戦慄する人続出!横須賀から海南まで12の軍港を徹底解説
東京湾の入り口に位置する神奈川県横須賀。この港町に、かつて日本海軍最大の拠点があったことはご存じだろうか。明治時代の写真には、巨大な軍艦と船のドッグが写っている。現在、同じ港に浮かんでいるのはアメリカの原子力空母だ。明治の軍港は今も巨大な軍艦が集まる港であり続けているが、そこに掲げられる旗だけが変わったのである。
実はこれは横須賀だけの話ではない。かつて日本海軍は国内と海外に数多くの軍港を築いた。戦争の飛行場の多くが今や民間の空港に変わったのとは対照的に、軍港は今も海上自衛隊や各国海軍の拠点として受け継がれているのだ。国内外の12の軍港を、AIによるフルカラー復元写真とともに辿ってみよう。
開国の地・横須賀と空母信濃の悲劇
横須賀に海軍が生まれた理由は、日本の開国に遡る。1853年、ペリー率いる黒船4隻が横須賀の沖に現れ、日本はついに国を開いた。西洋に負けない海軍を持つため、開国の地である横須賀に海軍が作られたのだ。やがて横須賀は東洋でも指折りの造船所を持つ横須賀海軍工廠へと発展し、数えきれないほどの軍艦を生み出した。
中でも桁外れの一隻が空母「信濃」である。あの戦艦大和の3番艦を作り替えた世界最大の空母で、その建造は固く秘密にされていた。しかし完成からわずか初めての航海で港を出た信濃は、たった17時間後に潜水艦の魚雷を受け、800人近い乗員と共に海に沈んだ。潜水艦に沈められた軍艦としては世界最大の一隻である。その損失は長く国民に隠されていたという。
敗戦後、横須賀はアメリカ軍の町となり、今ではアメリカ海軍第7艦隊の司令部が置かれ、アメリカ本土の外でただ一つ原子力空母が母港とする港となっている。幕末に生まれた軍港は150年を超えて今も軍の港であり続けている。
戦艦大和を生んだ呉、引き揚げの港・舞鶴
広島県の呉は、かつて「東洋一」と謳われた軍港だ。1889年に呉鎮守府が置かれ、日本一の造船所である呉海軍工廠が生まれた。そしてここで人類が作った最大の戦艦、戦艦大和が秘密裏に建造された。46センチ砲を積む鋼鉄の城は、その大きさも重さも大砲も全てが世界一だった。だが大和にも悲劇の最期が訪れる。1945年4月、沖縄を目指し片道分の燃料だけを積んで出撃した大和は、アメリカ機の大軍に襲われ、数百発の爆弾と魚雷を受けて沈没。約3000人の乗員が命を落とした。
呉の町も空襲で焼き尽くされたが、大和を生んだ造船技術は戦後に世界有数の造船大国へと日本を押し上げた。今の呉は海上自衛隊の潜水艦部隊の母港であり、港のそばには大和ミュージアムが立っている。
一方、京都府の舞鶴は1901年に置かれた日本海側でただ一つの鎮守府で、初代司令長官は日露戦争でロシアの大艦隊を打ち破った東郷平八郎だった。敗戦後、舞鶴は引き揚げ港となり、シベリアの収容所や大陸から生き延びた人々がこの港へ帰ってきた。13年間で約66万人が舞鶴の岸壁に降り立った。「岸壁の母」と呼ばれた女性が、6年間も息子の帰りを待ち続けた悲話も伝えられている。今も舞鶴には当時の赤レンガ倉庫が残り、引き揚げの記憶は「世界の記憶」に登録されている。
西の要・佐世保と国境の島々の守り
長崎県の佐世保は、もともと小さな漁村だったが、1889年に佐世保鎮守府が置かれて一夜にして軍港へと生まれ変わった。複雑に入り組んだ湾と周囲の山々が、天然の良港かつ守るに適した地形だったのだ。今も佐世保には1922年に完成した高さ約136メートル、3本の巨大な電波塔「針尾送信所」がそびえ立つ。対象時代に建てられた塔として日本で最も高い現存する建物だ。戦後も佐世保は軍の港であり続け、現在はアメリカ海軍の佐世保基地と海上自衛隊の基地が同じ港を分かち合う。
本州最北の青森県大湊は、1905年に大湊要港部が置かれた北の海を守る拠点だ。尻屋崎の砂嘴が天然の防波堤となり、絶好の軍港となった。戦後も大湊は海上自衛隊の大湊地方隊として、津軽海峡や宗谷海峡を通るロシアの艦船を見張る北の最前線であり続けている。
長崎県対馬にも竹敷要港部があった。これは日本海軍で一番最初の要港部である。対馬海峡を挟んで日本とロシアが国の運命をかけて戦った日露戦争の舞台を間近で守る拠点だった。竹敷要港部は1912年に廃止されたが、韓国までわずか50キロという国境の島・対馬には今も海上自衛隊がいて、対馬海峡を通る船を静かに見張っている。
海を越えた外地の軍港と桜の記憶
海を越えた外地にも日本の軍港はあった。現在の韓国の鎮海には1916年に鎮海要港部が築かれ、計画的な軍の町が作られた。町の中心には大きな広場があり、そこから道路が放射状に伸びる美しい町の形は今も残る。そして町には日本がたくさんの桜を植えた。日本の敗戦後、鎮海は韓国海軍最大の軍港となり、今も韓国海軍学校が置かれている。日本が植えた桜は30万本を超え、春には韓国で一番の桜の名所となる。その桜祭りには毎年200万人以上が訪れるという。
中国の旅順は冬でも凍らない貴重な不凍港で、昔から大国に狙われ続けてきた。日露戦争で乃木希典が指揮した旅順攻囲戦は凄惨を極め、203高地を巡る戦いでの日本兵の犠牲は延べ6万人に上った。乃木自身も2人の息子をこの戦いで失っている。現在の旅順は中国海軍の重要な軍港となり、かつて日本兵が血を流した203高地は戦跡として残されている。
台湾海峡に浮かぶ澎湖諸島の馬公には1901年に馬公要港部が置かれ、太平洋戦争では南方作戦の拠点となった。今も馬公は台湾海軍の軍港であり、台湾海峡の緊張の最前線であり続けながら、同時に人気のリゾート地としての顔も持っている。中国・南シナ海の海南島は1939年に日本海軍が占領し、1941年に海南警備府が置かれた。日本の南進の足掛かりとなった島は、今や中国海軍の南シナ海への一大拠点となり、原子力潜水艦や空母が並ぶ世界の緊張の焦点となっている。
受け継がれた日本の海
飛行場の多くが民間の空港に変わったのとは違い、軍港は今も軍の港として受け継がれている。横須賀や佐世保にはアメリカの軍艦が、呉や舞鶴、大湊には海上自衛隊の艦艇が、海の向こうでは韓国や中国、台湾の海軍が、かつて日本が築いた港でそれぞれの海を守っている。国も時代も超えて、軍港は軍港であり続けているのだ。
そして、どの港にも今に残る記憶がある。横須賀の三笠公園には日露戦争の旗艦・戦艦三笠が、呉の大和ミュージアムには10分の1サイズの戦艦大和が、佐世保には天を突く針尾送信所が、舞鶴の岸壁は引き揚げの人々の記憶を見つめ続けている。
ネットの反応
敗戦から立ち上がり現在の日本の基礎を造り上げた日本人に感謝しかない
横須賀にこんな歴史があったとは知らなかった。今度行ってみようかな
舞鶴の引き揚げの話、岸壁の母の話は何度聞いても胸が締め付けられる
軍港は今も軍の港なんだな。飛行場とは大違いだ
針尾送信所、まだ現存してるのか。高さ136mはすごいな
対馬は今も国境の最前線なんだな。歴史が続いてる感じがする
鎮海に30万本の桜、日本が植えた桜が韓国の春を彩ってるって感慨深いな
信濃の最期はあっけないな。世界最大の空母が初航海で沈むとは
大和の建造技術が戦後の造船大国の基礎になったのは知らなかった
旅順で6万人の犠牲か。凄惨すぎる…歴史を忘れてはいけないな
呉の大和ミュージアムは一度は行ってみたい
AIでカラー化された当時の写真、色が付くと歴史が身近に感じられる
佐世保は漁村から一夜にして軍港になったのか。地形の力は大きいな
ドブ板通り、横須賀の風景は独特だよな。日米が肩を並べて暮らしてる
AIの所感
この軍港の歴史を辿ると、日本の近代史がまさに「海」を軸に動いてきたことがよくわかる。開国から始まり、日露戦争、そして太平洋戦争へ。各地の軍港はその時代の要請に応じて生まれ、役割を変えながら、今もなお現役の軍港として機能している点が印象的だ。
特に興味深いのは、軍港の「連続性」である。戦争に敗れて日本は多くの軍港を失ったが、横須賀はアメリカ海軍の、鎮海は韓国海軍の、旅順や海南島は中国海軍の拠点として、同じ港が別の旗の下で使い続けられた。地形が優れている港は、どれだけ時代が変わっても軍事的価値を失わないということの証明だろう。
一方で、軍港は単なる軍事施設ではなく、人々の記憶が息づく場所でもある。戦艦大和を生んだ呉の造船技術が戦後の日本の経済復興を支え、舞鶴が66万人の帰還を見守り、鎮海に植えられた桜が今も韓国の春を彩っている。破壊と喪失の歴史の中にも、技術や記憶、文化として受け継がれたものがある。先人の犠牲の上に今の平和な日本があることを、私たちは決して忘れてはならない。

